神鍋火山岩(16)

◆神鍋遺跡 ※「日高町史」より

 さて、神鍋遺跡が12地点に分かれていることは、神鍋山麓の

一地に永く定住した生活が営まれたのではなく、一地に生活が

展開しても、それは短期間で、やがて他の土地へと漂泊している。

やがてまた違った集団がやってきて、神鍋山麓の別の地点に生活



を展開するが、これもやがて次の地点へと、12地点はそれぞれが

単一遺跡だということだ。神鍋遺跡から約2km離れた山宮集落の

「山宮遺跡」、山宮と頃垣集落の境付近の台地の上にある「前田遺

跡」らも土器や石器が出土している。但馬の縄文遺跡の9割がこの

ような単一遺跡だが、出土した土器から草創期から早期・前期を中

心に、僅かながら中期、晩期までを含む総合遺跡で、但馬の他の

縄文遺跡はどちらかと言えば、比較的に単一な出土遺跡を持つこと

から、どの地点よりも永く縄文人が訪れ、来てはやがて去り、また

暫くしては別の集団が住みついてと、高原地帯で息長く次から次へ

新しい生活が生まれ集落が営まれていた。また、関東や中国四国・

九州系などの土器も認められ、広く文化交流があったことを窺わせ

る貴重な遺跡だと言える。さて、今から1万年、草創期縄文の頃か

ら、気温が僅かづつながら地球が温暖化、氷河が溶けて海面が上が

る海進が起こった最極の時期は、今から約6000年前の中期縄文

時代で、今までの海岸線の低平部が水浸しになる(縄文大海進)。



試みに海面が10mも上昇すれば、久斗の付近まで水が入り込ん

でくる。このようなことから早期や前期の縄文人は、気温も高く、

冬でも寒冷、積雪地帯ではない但馬の高原、山岳地帯で生活が営ま

れていた。やがてまた地球が寒冷化、氷河が厚さを増し、海面が低

下する。2000年前ぐらいが最極(弥生海退)。縄文人も山地から

低地、北から南へ移動する。神鍋の山麓にも過疎化の波が押し寄せ、

中期縄文の土器片の出土が少ないのも、こうしたわけからだった。

このように、神鍋山周辺の地帯は、但馬の中でも、いち早く人々が

住みついた地帯であって、憤煙の収まった神鍋の火山灰地に営まれ

た生活には、北陸や中部山岳地方との関係が濃厚に含まれると共に、



西方地域の要素も混入していた。この山岳地帯は、亜温帯のブナ林

を主体としたいわゆる落葉広葉樹林帯の文化圏に属していて、クリ、

ドングリなどの堅果性植物や、この堅果を食べに来る動物たちが、

彼らの重要な食料資源だった。また、神鍋溶岩流が堰き止めてつく

った堰止湖にも漁していたことだろう。

神鍋火山岩(15)

◆神鍋遺跡◆、「日高町史」より



神鍋遺跡は、火山噴火によって形成された扇状地状の標高330〜

360m、段斜面の南面部、約1kmにわたり、土器片、石器など

が散布する地点が約12ヶ所ほど集中している。戦後、この地に酪

農事業をとり入れようとして、開墾が進められる途上に、縄文遺物

の散布地であることが発見され、地元の篤学の人たちの手で入念に

表面採集が行われていた。本格的な発掘調査は昭和44年、遺跡の



一部について行われ、住居跡、貯蔵穴、配石遺構などを検出した。



貯蔵穴は、中から発見された土器の様式から、縄文式文化前期後

半のものと考えられ、その当時の食料貯蔵の一方法を示すものと

して興味をひいた。この中には、炭化したカヤの実が入っていた。



配石遺構(集石遺構、縄文時代につくられた、表面のなめらかな

河原石などの自然石を目的をもって配置したり、組合せたりした

遺構で、日常生活、埋葬や祭祀など信仰に関わるものまで目的は

多岐にわたる)は、発掘調査前にも、かなりの数のものがあったら

しいが、なお、おびただしい数の遺構が検出され、河原石が多く


※「ひだか辞典」より

使用され、赤く焼けているものが多かった。恐らく、この石で動植

物をむし焼きにしていたのだろう。出土遺跡は、縄文式土器を中心に、



石器類がこれに伴っていた。土器片1000点、石器類100点という

のが発掘の成果だった。さて、この発掘出土遺物にかぎらず、既出土

の遺物を含めて整理してみると、ここに「押型文土器」が検出されたこ

とは、注目しなければならない。つまり、神鍋遺跡が非常に古いもので

早期縄文時代の遺跡であったことを示している。更に、「爪型文土器」

も出土していることから、ひょっとすると、縄文草創期の時代にくり上

がる可能性のある遺跡で、兵庫県下でも最古のものと考えられる別宮

遺跡につぐような古さを持つ貴重な遺跡と見ていいだろう。

神鍋火山岩(14)

◆神鍋遺跡 、「日高町史」より

歴史というものは、土地とその上に住みつく人間との相互関係

の上に成立するもの。神鍋の噴煙が収まったのは、約8千年〜

1万年くらい前のことだ。この少し前の頃に、但馬に人間が住み

ついた痕跡が残っている。それは、突端がとがった石ではあるが、

その横面には、くっきりと石の表面を剥いだと思われる加工の痕が、

いくつも残っているものが、この但馬から検出されているからだ。

この石の加工品、即ち石器を学術的には、尖頭器と呼んでいる。

土器の時代に先行する先土器時代(人類が日本で住み始めてから

土器を作り始めるまでの時代をいう)の終末ごろを特徴づけるのが、

この尖頭器で、それが但馬でも僅か2例であるが、養父町と但東町

から発見されていることは、無土器時代の終末期になって、但馬の

山間部に人間が姿がちらほら見えてきていることを証明するものだ。

日高町ではまだ、この尖頭器が発見されていない。しかし、この日

高町にはいつの日か、この尖頭器が検出される可能性が、但馬の他

の地域に比べて濃厚な地帯のように思われてならない。それという

もの、日高町、わけても神鍋山麓一帯は、但馬でも最も古い遺跡の

一つと考えていいものが存在しているからだ。やがて、神鍋の噴煙が

鎮静化したころ、黒褐色の灰土の上に現れた人たちは、すでに土器を

作り、これを日常用品として利用することを知っていた。このころ

の土器の表面には、縄目様の文様が特徴的であるために、縄文土器

と呼ばれ、この時期を縄文式土器文化の時代と呼ぶ。兵庫県では、

縄文遺跡は、そのほとんど大部分が但馬に集中している。その特徴的

なことは、時代が遡るほど、その遺跡は高地部に多いことだ。兵庫県

下で最古の遺物が検出された関宮町の別宮遺跡(べっく)は、海抜

600〜700mの高原地帯で、約1万年前の草創期(早期の前)

縄文文化のものと見ていい土器が出土している。別宮遺跡は、鉢伏山

の尾根が南にのびた丘陵の上に展開している。これと同じような景観

を呈しているのが、日高町の神鍋遺跡だ。

神鍋火山岩(13)

◆神鍋溶岩流Α

「透水層と不透水層」「湧水の誕生」「天然ろ過装置」
「平坦地」「日本一海抜の低いワサビ田」「十戸の清水」

   
火山、溶岩流がもたらす大きな特徴の一つであり、この付近、



十戸にとって大きな恩恵となっている「湧水」の誕生です。

溶岩瘤や風穴の構造、簡単には溶岩流の末端にはたくさんの

滝ができており、 「二段滝」や「十戸の滝」の構造を見れば

溶岩流と次の溶岩流の間には、火山礫やスコリア層を挟んで

いることが容易にわかります。上位にはスコリア、土石などで

形成されている透水層(水を通す)が分布し、下位には溶岩層

(基岩盤、なめら)で形成されている不透水層(水を通さない)

が分布し、この2つの地層の組み合せが湧水を生み出す仕組み



となっています。神鍋周辺からこの付近にかけて、このような地

層が形成され、大部分を占めています。溶岩層は江原まで達して

いますが、透水層はこの付近で止まり、上方(神鍋周辺)に降った

雨や雪が大地、地層に吸収され、「天然フィルター」「天然ろ過



装置」をゆっくりと相当な距離を通過し、きれいに濾過され、下方

の透水層分布域の縁辺部(地層の切れ目)、「土石流の丘」の麓か

ら少しずつ地表に溢れ湧き水となります。神鍋周辺から稲葉川中流

の十戸付近までは畑が多く、田んぼが少ない、これは大地に水が吸



収(水はけが良すぎる)されてしまうからです。稲葉川の水も途中



で減って(抜けて)しまいます。逆に、十戸付近からは田んぼが広

がっています。湧水の大部分は十戸村の5か所から湧き出し、その

水量は県内一を誇り、「十戸の清水」として名水になっています。

年間を通し水温が12〜13度と恒温を保っており、古くから養鱒

やワサビ栽培に利用されています。訪れた人は、「大きな山が周り

にないのに、何でこんな平坦な土地から、集落のすぐ裏手から水が

豊富に湧いているのか」と驚かれます。当地の標高80m、「海抜



が日本一低いワサビ田」とも言われています。ワサビは標高が400

〜500m、谷川の水を利用して栽培するのが一般的です。昔の文献

「わさび田を訪れて想う」から。・・・私達のワサビ田は殆どが山谷

の窪みにあるいは谷のような所に存在するのが普通・・・車窓から眺

めてもそのような所は見当たらない。平坦地である何処にワサビ田

があるのだろか、こんなことを考えている内に北村氏宅に着く。・・・

ワサビ田見学という事になったのですが、私達は山へ行くのかと思っ

ていたら邸宅裏続き面積33アールとの由、これには驚嘆しました。



写真奥には水の神、守り神として「弁天さん」と呼ばれる「弁財天」

が祀られています。この奥にワサビ田が広がっています。水源地に

も弁天さんが安置されています。「十戸の清水」には、古くは生活

用水にも困っている状態であったが、弘法大師が杖でトントンと突



いたことから湧いた・・・という伝説があります。水文化、暮らし、

そのあたりのことはまた記録していきます。本題に戻り、神鍋火山、

溶岩流がもたらした溶岩大地、湧水の恵みをもとに、この地の人が

ワサビ田として開墾するわけですが、次回はその「人」の話しです。

神鍋火山岩(12)

◆神鍋溶岩流ァ

「遷急線」「土石流の丘」「石採場」「透水層」「縁辺部」   

神鍋火山群、溶岩流が生み出した大地の形成、いよいよ十戸付

近、本題である「湧水」の誕生に近づきます。マップにもあるよ

うに神鍋火山群の噴火による溶岩の流下はたびたび繰り返され、

火口から溢れ出た溶岩は、約15匆捨の円山川まで達してい

ますが、石井、頃垣付近から十戸付近(神鍋山の標高は469m、

十戸は80m、神鍋山の麓、約5.1km南部に位置する)はちょ

うど地形(勾配)の「遷急線(せんきゅうせん)」(山の勾配が

急な所から緩やかな所に変わる、平坦地に差し掛かる)になって

いることから、この付近にはある特徴的な変化をもたらします。



このような地点は洪水などで上流からの土石も溜まりやすく、

火山噴出物(火口からのマグマはサラサラの溶岩として流出し

ますが出方によって火山灰、スコリア、火山弾、火山礫、火山

岩塊など様々)、砂や土や泥など大地のあらゆるもの巻き込み

ながら、この付近で止まって堆積し、「土石流の丘」をもたらし

ました。「溶岩を主とした土石流」とも言えます。文献によって

は「スコリアを主とした」という意味で「スコリア丘」とありま

すが、スコリア丘とはやはり火山体のことを意味するようです。



ワサビ田の南東側にあるこの土石流の丘が、今では「石採場」と

呼ばれていますが、約300年前にワサビ田を築く「材料」となっ



た石や砂の採取場になります。ワサビ田を半分囲うように西側に

位置している「小池山」も溶岩、土と石が一緒になった丘とも言え



ます。写真のように、平坦な田んぼ、奥が十戸集落、ここに川魚の

池、ワサビ田、土石流の丘、そして小池山があります。写真の右側、



うちからすぐ坂を上がった頃垣にも、ワサビ田のと同じような丘

が残されています。今では大きな道路も通っていますが、付近



一帯がこのような丘とも言えます。写真右奥は昔の字名が「下り口」、

このことからもこの辺りは勾配が緩やかになる地点だとわかります。



十戸、頃垣付近には大規模な「土石流の丘」が見られますが、



少しの地形の変化などで土石流(溶岩流の丘と同じように)が堆積



した小規模な丘も各地に残存しています。名色付近、頃垣から



十戸にいたる道路沿い、神鍋山から8kmほどの庄境、野村付近に



もあります(今も?)。文献には、野村付近のものは高さ3m余りの



小丘で、「土採場」と呼ばれ、石や砂を採り出し利用されていた、

この丘の中には直径50僂陵牢箍瑤盍泙泙譴討い拭△箸△蠅泙后

写真はすべて頃垣の丘です。ワサビ田の丘(石採場)は後で詳しく

書きます。土石は、「水はけが良い」ので埋立などに利用されたわ

けですが、神鍋周辺から地形の遷急線であるこの付近まで流れて、

止まり、このような「透水層」、文献によっては「スコリア層」が

分布しています。そしてその地層の切れ目、「縁辺部(えんぺ

んぶ」となったこの土地に湧水という大きな恵みをもたらします。

神鍋火山岩(11)

神鍋溶岩流ぁ 岷畛澹弌廖嵎震遏廖嵳水地名」

神鍋溶岩流による溶岩によって所々で稲葉川が堰き止められ、

その上流に湖ができました。この湖に土砂が堆積して湖沼地と



なり、現在は谷底にある平野となり、田園地帯となっています。

このように岩石が自然堤防となり「堰止湖」となり、やがて干上

り、「平野」になった所はいくつかあります。「日高町史」より、

堰止湖は神鍋平野(栗栖野、太田)、石井平野、山宮平野、十戸



平野(写真)、三方平野(広井、篠垣)などを形成した。清滝小



学校の北には溶岩崖があるが、「古太田湖」の形成にあたって

堰止めの役をしていたと思われる。荒川の隆国寺付近や阿瀬川

沿いに堤防上の溶岩崖が見られるが、「古広井湖」を作った溶岩

崖の残り物だろう。そして十戸には「中の池」「小池」「大池」

などの字名が残っているが(5か所ある「十戸の清水」の3か所

の湧水地名として今も残っています)、恐らく堰止湖が永く残っ

ていて、湖か沼沢地を作っていたことを説明している?

神鍋火山岩(10)

◆神鍋溶岩流 「なめら」「溶岩流の丘」

溶岩流と言えば、稲葉川のほうに目がいきますが、谷に沿って

大地を覆い尽すように流下して形成された数枚の溶岩層が広く

分布しているこの辺りでは、自然のままの溶岩も各地で見られ

ます。地面から顕われ、突き出し、一枚続きの平らな溶岩を地

元では昔から「なめら」と言います。「なめらがある」と父な

んかも言ったりします(由来はよくわかりません)。最も身近



にあるのがワサビ田に点在している「わさび田のなめら」です。

ここにはワサビが植えられません(また詳しく)。なめらがその



まま石垣の一部になっていたり(また詳しく)、普段の道路沿い

にも見られます。こちらは大規模というか丘状になっていますが、



地形によって溶岩流が溜まり、堰き止められてできたと思われる



「溶岩流の丘」です(この表現でよいのかわかりませんが)。次の

噴火による溶岩流がその丘でまた止まり違う方向に流れたり、各火



山体から流れて来たり、変化に富んだ溶岩大地が形成されました。

写真は十戸よりも上の石井の県道沿いです。学校への通学路でし

たので(今は長男が毎日歩いていますが)よく覚えています。



こちらは県道から分かれ大岡山への道沿い。昔は県道に歩道が



なかったので、雪で危険だとここが冬の通学路になっていました。



「ブリ火山」からのブリ溶岩で形成されたもの?だと思われます。



こちらは十戸の下の伊府地区、植村直己冒険館の道路向かい。

このように小規模なものから丘状のものまで、自然のまま残され、

多様な大きさ形、凹凸となって地面に顕れている溶岩から大地に

広く分布している溶岩層を思い、湧水の仕組みも見えてきます。

神鍋火山岩(9)

◆神鍋溶岩流◆ 岼靈媽遏



稲葉川から流下した溶岩は冷え固まる間に、また川の侵食により

変化に富んだ特徴的な地形、景色を生み出しました。特に神鍋山

に近い「俵滝」から「十戸滝」にかけて(約5km)、約30もの



名勝が続き、散策ルート(マップは道の駅などに)になっています。



「八反の滝」。



「瓢箪淵」の付近。これらの写真は確か5年前、渇水期でした。



「小滝」。



「二段滝」。



「溶岩瘤」の付近。



「十戸の滝」。



滝の上から。



それぞの滝には後退現象が見られますが、なかでも十戸の滝の

後退は著しく、下流で水量も多く、溶岩の間に火山礫やスコリア

層が挟まれていて侵食に弱く、滝の裏面が削られて、滝が次第

に後退していく様子がよくわかります。十戸の滝はまた詳しく。

神鍋火山岩(8)

◆神鍋溶岩流  嵒穴」

何回かの活発な活動により火山から流出した溶岩は、幾重もの層を

作りながら稲葉川に沿った谷間を流れ、約15m下流の円山川まで

達しています。その間、各所に風穴(溶岩洞穴)、滝(大小合わせて

10以上)、甌穴(おうけつ)、溶岩瘤(こぶ)などの奇岩、堰止湖、

溶岩流の丘、そしてこの地の十戸湧水と、特徴ある大地を生み出し

ました。一般に火山の風穴というのは空気が通り抜ける穴や空間を

いいます。溶岩と次の噴火による溶岩との間にクランカー(半固結時

に破砕された溶岩のかけら)が挟まってできる隙間や、土砂の上に

堆積した溶岩に土砂が洗い流されてできた隙間などです。神鍋周辺

には何十とたくさんの風穴があり、畑などその辺のちょっとした所に

もあるようで、夏はそこに手を入れると涼しく気持良いとのことです。

春先に最初に雪が溶ける場所(冬は暖かくそこから噴き出す風で)に

はよく風穴があると言われています。風穴のなかでも神鍋の西麓にある



「神鍋風穴」は規模が大きく(奥行きが約6m、幅約6m、高さ約8m

の空間)トンネル状になっています。看板には、「神鍋山が、噴火した

時にできた自然の空洞です。流れた溶岩の外側が先にかたまり、中の

溶岩が流れ出た跡だと思われます」とあります。年間平均気温が8℃

と一定しているので古くから、穀物や蚕種の貯蔵保存などの農蚕業に

利用されていました。看板にも、「昭和20年頃には、種子の貯蔵庫と

して使われいました」とあります。蚕種(さんしゅ)、蚕の卵を保存し

ていた、どこの田舎でも昔は桑畑があり(神鍋の黒ボクで・・・あとで

詳しく)、養蚕が行われていました(うちも昔は養蚕農家でもありました。

今の自宅がある場所は桑畑だった、十戸にも製糸工場があり、ワサビ

田から水を・・・また詳しく記録)。また、植林用の苗木となるスギ



やヒノキの種子も保存いていたそうです(写真はワサビ田のスギの芽)。



その種子を保存していた「かめ壺」が、今は風穴の前に並べられています。

また、野菜などを保存いたり、このように風穴は「天然の大型冷蔵庫」と

して利用されていました。現在はセメントで天井に蓋がされていますが、

かつては上の穴から出入りして、今ある横からの入口はなかったそうです



(写真は案内看板より)。この風穴に隣接している「風穴庵」さんでは、

田舎料理や名物「麦めしとろろ」が味わえます。



■風穴庵さん
豊岡市日高町栗栖野841  TEL: 0796-45-0551 
営業時間: 11:00〜17:00 ランチ営業 定休日:水曜

神鍋火山岩(7)

◆神鍋火山群 「溶岩の流下」「大地の誕生」

神鍋火山が噴出した溶岩は火山群の中でも最も多く、噴火口は南東に

に傾いて開き、溶岩はここから稲葉川の低地を目指して、大部分が流

下したものと思われます。神鍋温泉ボーリング資料によると、ボーリ

ング地点(栗栖野より太田への道路沿いの運動場付近)において、地表

から70mの神鍋山溶岩の下に100mの厚さで大机溶岩があり、さらに

14mの厚さの砂と粘土層を挟んで基岩盤である北但層群があることが

わかりました。また、このことから神鍋山周辺は、今からは想像もでき

ないような深い谷であって、流下した溶岩は、これらの谷を埋めつくし、

皺ヶ野台地(シワガノ、神鍋山の南東に広がる高原)などのなだらかな

広い平地を形成し、次いで稲葉川渓谷沿いに流下しました。神鍋火山群

の溶岩は粘性の小さいサラサラとした玄武岩質溶岩であるため遠くまで



※「神鍋溶岩流散策マップ(豊岡市)」より ※赤丸が当地

流れ、約15m下流の土居付近まで及び、当時の円山川の本流に流れこ

んだものと思われます。十戸温泉ボーリング資料からは、稲葉川沿の地点

で厚さ約36m、幅は約300m位、荒川付近では幅広く流れ1.5km

位の溶岩が確認されています。江原付近では国分寺から岩中まで1kmの

幅で流れ、江原付近の集落の多くも溶岩流の上に発達しています。このよう

に一連の火山群の噴火、溶岩流によって神鍋、日高町の大地が誕生しました。