神鍋火山岩(26)

◆火山がもたらしたもの

「火山地帯の悲劇と恩恵」からそのまま引用させていただき

ます・・・南九州には、カルデラ火山が集中している。人々

の生活は、これらの火山と共にあったといえる。そして今か

ら6,300年前、この分布の一番南に位置する海底火山が、

日本列島に大きな影響を与えることになった。海底火山の大

爆発「鬼界カルデラ」である。上野原をはじめとする南九州

で繁栄してきた縄文集落に襲いかかったのである。何故危険

な火山地帯にも関わらず、人はそこに住むのか。一生の間に

火山の大噴火に遭遇する確率は極めて低いだろうから、火山

の噴煙に慣れてしまい、自分の生きているうちには噴火はし

ないだろうという意識が働くからかもしれない。しかし、話

はそんな単純なものではいようだ。大阪市立大学理学部教授、

熊井久雄氏が調べた結果。太古から火山地帯は、生活する上

で有利だったようだ。八ヶ岳の長野県側。縄文時代の遺跡の

分布と火山の地形を良く調べると、ある傾向が見つかった。

遺跡は火山の麓に集中しているのである。そして、大変理に

かなったことだったという。火山は天然の貯水池でもあった

のである。火山灰土壌は雨水を吸収しやすく、溶岩の裂け目

も水の通り道になる。下部へと降りた雨水は、水を通しにく

い泥炭層とぶっかり、溶岩の中を通ってゆっくりと下流へと

向かってゆく。それはやがて湧き水となって、裾野の地表に

出る。この水こそが人々を潤したのである。水の無い場所で

は人は生きていけない。火山の周りを流れる河川の流量も湧

き水同様に豊富なことから、人々は火山の周辺に居を構えた

と考えられる。又、あまり語られていないが、体を癒してく

れる温泉という恵みにも気付いていたかもしれない。更に、

火山は土壌を豊かにしている。これは火山周辺の環境に限ら

ず、日本全体にいえることだが、日本の火山灰の中でも特に

黒みがかった火山灰土壌は、有機物が豊富で非常に肥沃だと

いう。そのため木々や植物が良く育つというわけだ。その後

の日本で畑作や稲作が栄える背景にも火山灰土壌の存在が深

く関わっている。・・・火山がものたらしものはやがて恩恵

となり、古代人は神々の山として信仰、崇拝します。

神鍋火山岩(25)

◆神鍋の里山◆

「山陰海岸ジオパークの豊岡市ガイドブック(3)」より、



神鍋エリアではスギ、ヒノキなどの人工林の他、アカマツ、



コナラ、ミズナラを主とした雑木林(二次林)が集落の

近くにあります。貴重なアスナロ、トチノキ、オニグル

ミ林などは蘇武岳、三川山の沢沿いに見られます。神鍋

エリアでは関西地方では珍しく、照葉樹林の限界近くに



北方系のブナ帯の森林が現れています。写真の雑木林は、



マウンテンバイクのコースにもなっています。落ち葉

拾ったり、子供たちとどんぐりを拾ったり、苗木を作り

小池山に植えたり、雑木林からいろいろと。また、黒ボ

ク土の文献にも山焼きやワラビ野の話しがありましたが、

神鍋山の火口付近では4月、伝統行事である「山焼き」



が行われます(迫力ある光景だろうと思いますがまだ

見たことありません)。防火のために行われるようで



すが、ススキやワラビなどの新芽の生育も促し、写真

は山焼き後の「北壁ゲレンデ」(この時期はスキー場



です)、山菜が豊富に見られます。新聞(1月6日)にも、

「神鍋高原の周辺に自生する山野草400種を収録したカ

レンダーが完成、春の山焼きやスキー場開き前の芝刈りな

ど、年間を通して手入れがされており、山野草が豊富に育

つ環境にある」とありました。神鍋ならではの自然、また

集めてみたいと思います。

神鍋火山岩(24)

◆神鍋の里山



数ある昔の写真のなかでも、「家宝」とも言える写真(拡大可)です。

黒ボク土の生成のなかで、「ススキ野、茅場を維持した」とありま

した。これはワサビ栽培の話にも直接つながります。ワサビ田は

「日覆い」をして遮光をしますが、昔は何でしていたのかと言うと、



このカヤ、神鍋のススキを使っていました。竹で棚を組んで、編ん

だカヤを天井に広げているのです。3反あるワサビ田がすっぽり、

「カヤ日覆い」で包まれている光景です。うちは祖父の代まで、養

蚕農家でもあり、米農家(ワラもワサビ栽培に使った・・・また記録)

でもあり、ワサビ農家でもありました(今は専業ですが)。農村、里

山のなかにワサビ田(水)もありました。昔はどこの農村でも、農家

が山からカヤを刈ってきたり、集落近くにはカヤを育て管理する「茅

場」があったり、茅葺き屋根、田畑の刈敷肥料、草原堆肥、牛の餌、

炭の俵などの材料に利用され、「刈り入れ」や「火入れ」など、人が

入ることで草原が維持されてきました。日本固有の植物であるスス

キは日本の文化にも深く関わっています。うちにもワサビ田の周り

に自家の茅場がありました(その後、ヒノキが植林)。神鍋山から

採ってきて株分けをしながら増やし、2反ほど栽培していたようです。

それでも足りなかったので山からも直接採ってきたようです。カヤ



を刈り取り、稲木などで乾燥し、「茅小屋」に収納し、冬仕事として

「カヤ編み」をしたそうです。自宅の2階で家族総出でせっせとカヤ

を編む、母がうちに嫁いですぐにこのような光景を見て、冬でもこ

んなに仕事があるのか、と思ったようです。今では人工的な資材

を使っていますが、それに移行するまで、昭和48年までカヤを編ん

でいたようです。また詳しく記録します。小池山にはまだそのカヤが

残っているかもしれません。

神鍋火山岩(23)

◆神鍋クロボク土Α 峺殿綽佑寮験茣超」

いろいろな文献から、黒ボク土のこと、古代人の生活環境なども

イメージできました。黒ボク土の生成には草原的環境が不可欠で、

閉鎖した森林ではなく、草原や疎林(木がまばらに生えている林)

のような植生が考えられる、人為的に伐採が繰り返される二次林

的環境や植裁林なども含まれる、とありました。狩猟、採取生活



をしていた縄文人は、野焼きをしてススキ野、茅場(かやば)を

住居の屋根葺き、家を作る材料とするために維持し(神鍋遺跡

貯蔵穴には炭化したカヤの実が入っていた、とありました)、ワ

ラビ野、ゼンマイ野を維持し、動物を追い込むための狩場に草原



を維持し、ドングリ、クリを選択的に残して維持し(雑木林、二

次林)、有用樹、植物を維持、管理、増殖、栽培し、稲作が伝わ

る以前に、原始的な農耕である焼き畑が行われ、キビ、アワ、イモ

類の栽培をし(縄文時代の農耕により稲作が比較的速く、東日本



にまで浸透した。しかし、黒ボク土は稲には合わないから水田稲

作の伝播は、それを避けて移動していった)、土器を生産し、燃料

用の薪炭の生産をし、十分な日光が地表に届き土壌温度が上昇しう

る解放空間を持っていた、つまり、1万年以上に及ぶ長い年月をか

けた「里山」での、かつての人間の生活活動によって黒ボク土が作



られたと考えられています。『縄文遺跡の立地性向』(枝村俊郎、

熊谷樹一郎・著、2009年)
より・・・縄文遺跡は黒ボク土壌

地帯、台地地形分布する傾向を持つ・・・黒ボク土の分布地には



縄文遺跡がある可能性が高いとも言わています。黒ボク土の生成

には火入れによる人間の作用が反映しているかもれない、黒ボク



土も多様化しているとありましたが、縄文人が残したとされる

巨大な「足跡」には、おもしろい話しがまだまだありそうです。

神鍋火山岩(22)

◆神鍋クロボク土ァ 嵎幻イ琉用記録」

参考になる文献、ブログなど、引用、記録させて頂きます。

・『図説 日本の土壌』(山根 一郎・著、朝倉書店、1978年)

黒ボク土が出来るのはススキのような生産量の多い草本が長年
旺盛に生育してきたためである。しかし放っておくと灌木が進入
し、やがては極相林になる。ススキ草原を維持するためには火入
れという作業も必要だった、とある。

 

・『千葉県の自然詩』(千葉県の自然詩、千葉県、1997年)


黒ボク土は人類の活動盛んとなった縄文海進期以降に台地上の
森林が破壊されて、火入れなどによって維持された草原で形成
された、という説が近年有力になっている、とある。

 

・『信州の埋没黒ボク土:2006 年7 月豪雨災害で露出した
埋没黒ボク土の年代と成因」(岡本透ほか・著、地球環境 巻:
16 号、2011年)

湖南山地には、有機物含有量が高く、黒色を呈する黒ボク土
(黒色土)に相当する特徴を有する埋没腐植層が多くの地点で
認められた。これらの黒色の埋没腐植層の中には、火災に被災
したことを示す100μm 以上の大微粒炭を多く含むものがあった。
さらに、埋没腐植層の年代値、考古遺跡の分布、史料、伝承など
を考慮すると、縄文時代以降、野焼きのような人間活動によって
維持された草原的植生が湖南山地には広く分布し、こうした草原
植生下において黒ボク土が生成されたと考えられる。とくに、古
代から鎌倉時代の年代を示す黒ボク土は、史料に記された官牧も
しくは荘園として維持された草原植生下で形成された可能性が高
い。一方、近世から1950 年代にかけても、湖南山地の稜線部に
は草原的植生が継続した。しかし、田畑や桑畑へ投入される草肥
や薪の採取地として過度に利用されたため、稜線部では土壌匍行
や表層崩壊などによる表層土壌の侵食が、谷頭凹地と谷底では周
囲からの土砂の埋積が進行したため、黒ボク土が生成しにくい環
境であったと考えられる。

・『日本の土壌5 黒ボク土』(加藤芳朗・著、アーバンクボタ)

黒ボク土をつくった草原

黒ボク土が日本ででき始めたのはいつ頃か、どのくらいの期間を
要したのかを説明しよう。・・・黒ボク土は1万年以降になって
さかんに出現するようになった。この時代は後氷期で、気候は現
在にほぼ近いといえる。また、ある仮定を置いて、黒ボク土中の
植物珪酸体の蓄積年数(黒ボク土の生成年数にほぼ等しい)を算
出すると1〜4×1,000年ぐらいの値が出る。年代のわかった火
山灰での例だと数100年でも腐植層は形成できる。現在の日本の
安定植相は森林であるといわれる。上述ように、黒ボク土が生成
するには、少なくとも数100年ぐらいはかかるので、草原がこの
期間維持されなければならない。そのためには、森林が破壊され、
なかなか復元されないことが必要である。

天然の作用としては、火山の噴火、山火事、海岸での潮風などが
ある。火山山麓に黒ボク土の多いのはこれで説明がつくかもしれ
ない。しかし、火山から遠く離れた所でも随所に見出される。そ
こで、こうした森林破壊要因として浮かび上ってくるのは、人間
の作用である。

黒ボク土の出現が人類の新石器文化とほぼ同じであるのは、偶然
ではないような気がする。つまり、人間の森林破壊(焼却、焼畑、
伐採など)が強まった時期である。人間の活動しやすい緩斜地や
平坦地に黒ボク土が多いのも、これと関係がないだろうか。

森林の破壊されたあとには、ススキなどの草本が侵入して原野化
することはよく知られ、これらが採草地として長く維持された例も
たくさんある。人間の行為をきっかけとした草原化の問題は、考古
学、植物生態学などの分野とも関連した学際的研究が必要である。

Чボク土の多様化

これまでは、主に火山灰に由来したものを中心にのべたが、ここ
10年ほどの研究で、変わり種の黒ボク土の存在が続々報告される
ようになって、黒ボク土の内容は多様化しつつある。東海地方や
北陸地方には、火山灰以外の母材から、黒ボク土と非常によく似た
土が出ている。腐植の質も似ているし、アルミナに富むことも同じ
である。・・・また、火山灰でも、その特色と考えられたアロフェ
ンをほとんど含まない黒ボク土が、山陰、岐阜などから見つかって
いる。

・『水と土(1) 黒ボク土 人が作った土?』(独・国立環境研究所)

火山灰は岩や砂に比べ粒子が細かいため風化が早く、この土の黒い
部分は、だいたい100年から1000年くらいでできてしまうと考え
られています。また黒さは腐植という、植物が腐って土に返った成
分が多いことに由来しています。

さて、この黒ボク土の生成には、1万年以上に及ぶ、かつての人間
の活動が反映されているといわれています。これは、たとえば土の
中に残っている植物ケイ酸体という、植物の中で作られ、さらに植
物の種類ごとに固有の形を示す鉱物を調べるとわかるようです。

すると、現在の黒ボク土の中にも、過去の火山噴火ですでに埋もれ
てしまった深い所の黒ボク土の中にも、草本類に由来する植物ケイ
酸体が、非常に多く見つかるのです。これはこの土ができる間のか
なりの期間において草原であったことを示しています。

しかし日本の気候帯から考えると、最後は木本類が卓越し森林に達
するはずなので、草原が長く維持されたというのは自然ではありま
せん。つまり、森林に至らず長きに渡って草原が維持されるために
は、何らかのかく乱が必要だったはずです。その一つとして森林破
壊や火入れなどの、人間の生活活動がかかわっていたというのが、
現在の有力な説です。

しかし、なぜ草原を維持する必要があったのかは諸説あり、動物を
追い込むための狩場にするためとか、家を作る材料の茅(かや)場
を維持するため、などが挙げられています。

つまり、この仮説が正しいとすれば、人間活動が土などの自然生態
系に大きな影響を与えてきたのは何も文明が発展した今日ばかりで
はなく、縄文時代や石器時代といったころから、綿々と続いている
ことなのかもしれません。

 

・『三内丸山遺跡の土壌生成履歴−植生環境、人の活動および
  黒ボク土層の関係−』(佐瀬 隆ほか・著、植生史研究第16巻
  第2号、2008年10月)

これまで、黒ボク土層生成に不可欠な要因とされる草原的環境のイ
メージの曖昧さが、土壌生成論と花粉情報との齟齬を生んでいたよ
うに思われる。黒ボク土層生成に関わる植生として、閉鎖した森林
ではなく、草原や疎林のような植生が考えられている(鳥居ほか、
1996;鳥居,2007)。また、十分な日光が地表に届き土壌温度が
上昇しうる解放空間を持つ植生環境が黒ボク土層の生成には重要
であり草原という狭い枠に限定せず疎林なども含めた明るい植生環
境を「草原的植生」と呼ぶ提案がなされている(三滴ほか、2008)。
このように考えれば、人為的に伐採が繰り返される二次林的環境や
植裁(栽培)林もこの広義の「草原的植生」に該当するであろう。 
関東平野(多摩丘陵)の黒ボク土(層)が生成した植生としては、
火入れなどの人為によって遷移が抑えられ成立する草原や、スス
キやアズマネザサを伴う落葉樹林が想定されている(武内、1994)。
このように、黒ボク土層の生成に不可欠な要因とされる草原的植生
を人為が絡んで成立する植生環境と広く捉えれば、花粉などによる
植生史情報と黒ボク土層生成論との齟齬はなくなる。

神鍋火山岩(21)

◆神鍋クロボク土ぁ 嵎幻イ琉用記録」

縄文人、ススキ野、ワサビ野、野焼き、土器の話しなど、おも

しろい内容です。要旨を引用、ブログに記録させていただきます。

 

・『黒土と縄文時代』(山野井 徹・著、
山形応用地質研究会、2000年3月)

旧石器時代の石器は赤土の中から、縄文時代の遺物は黒土の中か
らでてくることが多い。また、縄文期のものが赤土から出てくる
ことはあっても、旧石器のそれが黒土から出ることはない。すな
わち、黒土に埋没する土器は縄文期以降に限られるという不思議
な必然性がある。

従来黒土は「クロボク土」とよばれ、「火山灰土」と考えられてきた。

クロボク土はローム質土と比べて植物遺体(黒色破片)や腐植を多
量に含む点で異なる。すなわちクロボク土は植物遺体や腐植が分
解されずに残っているという特性をもっている。クロボク土の特
質が植物遺体が分解されないことであるならば、その条件こそが
クロボク土の形成要件であろう。

植物が分解されずに地層中に残る条件は2つある。1つは植物遺
体が酸化的な環境ではなく、還元的な環境におかれ続けることで
ある。もう1つは分解される前に燃焼に よって炭化することであ
る。クロボク土の生成環境は酸化的な環境であり植物遺体は分解
されてしまう。したがって前者の条件は消えるから、後者の炭化
条件が残る。そこでクロボク土層中の黒色破片は炭化した後に堆
積した植物破片ではなかろうかという見通しが得られる。

筆者は植物遺体を燃焼させ、その細片を顕微鏡で観察した。その
結果、クロボク土中の黒色破片の形態はススキの燃焼炭粒子と共
通していることを見出すことができた。よって、クロボク土中の
黒色破片は燃焼炭の微粒子(以後「微粒炭」という)と考えるのが最
も妥当である。

クロボク土の中には必ず微粒炭が含まれていることから、この微
粒炭の生産を、古代人の生活と関連させて考えた。古代人が火を
使い、草木の燃焼炭が粉塵となって堆積し、そこに腐植が吸着し
たものがクロボク土であると考えた。すなわち、クロボク土の形
成にとっての必要条件は、燃焼炭(微粒炭)の生産にある。つまり
クロボク土の形成には微粒炭を生産したような火の使用が必要不
可欠の条件となる。

さて、微粒炭を生産するような火の使用とは一体、どんなもので
あろうか。広大な範囲に微粒炭を堆積させるような火の使い方は、
炊事や土器焼きのような居住地周辺での小規模なものではなく、
野焼き、山焼きのような大規模なものであったと想定される。こ
うした野焼き・山焼が彼らの生活とどうかかわっていたかを考えて
みたい。

縄文時代の特徴は「狩猟・採取」生活にあり、次の弥生時代は「水田
農耕」生活が特徴であるとされている。縄文人は、トチやクリを
選択的に残していたことが、花粉化石の産出状況から知られてい
る(山野井・佐藤、1984)。選択的に残したと控えめに表現したが、
我々と同程度の知能があったであろう彼らは、もっと積極的に植
物を利用した可能性が高い。すなわち、彼らは植物の種を土に埋
めれば、芽が出て、生長して実をつけることを十分に知っていた
はずであるから有用植物の管理や増殖(=栽培)ができたに違いな
い。ただ、縄文期に農具の発達が多様化した証拠が認められない
ことから、原始的な農耕の域は出なかったのかも知れない。

原始的な農耕といえば、焼畑農法があげられこれは野焼き・山焼き
を伴うから、当時の微粒炭の生産はこの焼畑による可能性もある。
すなわち、弥生時代に大陸から人の渡来があって水田稲作が伝えら
れ、ここで初めて農耕が開始されたとするよりも、その前からすで
に原始的な畑作農業が行われていたのかも知れない。何を栽培して
いたかの特定はかなり難しいが、すでに、ソバの花粉の産出が認め
られているし、イネ、ヒエ、エゴマ、ヒョウタンなどの栽培植物と
考えられる実が見つかっている。こうした穀物などの栽培が焼畑と
関係があるか否かは、今後の課題となろう。なお、クロボク土の形
成年代は縄文時代に限らず弥生時代も多い。これは野焼き・山焼き
が、引き続き行われていたものと解釈される。また焼畑は近年まで
各地に残っていたことも実事である。したがって、クロボク土の微
粒炭が焼き畑によるものとすると、その上限の年代は弥生時代に終
わらず、山間地においては近年に至る可能性もある。ただ、以上の
ような焼畑農業をしていたと考える場合、微粒炭としてススキの燃
焼炭が多い事実の説明が困難である。そこで少し見方を変えて、本
格的な焼き畑農業に至らない場合を考えてみたい。

野や山に火を放つとススキ野にすることができる。熊本県の阿蘇山
山麓ではススキの採取のためしばしば火入れを行い林地化への遷移
を人工的に抑え、ススキ野を維持している。縄文人にとってススキ
は住居の屋根葺きの材料として利用されたに違いない。しかし、当
時、広大なススキ野にしなければならないほどススキが屋根材など
の需要があったか否かは検討を要する。ただし、ススキ野として注
目したいのは、ススキの草原は春にはススキに先駆けて多量ワラビ
が芽吹くことである。現在、山形県の観光ワラビ園ではワラビの採
取を目的として火入れを実施している。火入れをしたワラビ園は季
節が進むとススキ野に変わることが多い。こうしたワラビ野とスス
キ野がしばしば共存することは先に例としてあげた熊本県の阿蘇山、
山口県の秋吉台、あるいは奈良の若草山の例から明白である。微粒
炭の主体がススキの燃焼でもたらされたものであることは先に述べ
た。このことは秋までに成長して尾花をつけたススキは必要なもの
は採取し、残ったススキ野はワラビの芽が出る前に火を放ち、野焼
きをしてワラビ野・ススキ野を維持したものと考えられる。

このように彼らはワラビやゼンマイの生育し易い環境を人為的に作
り出していたのではなかろうか。春先に多量に採集したワラビやゼ
ンマイは保存食としても利用価値が高いので、ワラビ野やゼンマイ
谷を作っていたに違いない。ワラビはまたその根茎を打ち砕くと、
でんぷんがとれることから、これも利用されたであろうし、残った
繊維は耐久力のある縄として利用された可能性も強い。

最近、米沢市の台ノ上遺跡の発掘により、ユニークな文様をもつ縄
文中期のおびただしい数の土器の出土が報告されている(米沢市、
1995)。その文様とは渦巻き文様である。こうした文様は土器を立
てたときに下から上へ延びる直線に続く上部に渦巻き文様が配置さ
れていることから、シダ植物の若芽(ワラビ)をモチーフとしている
と考えられる。こうた植物が彼らの土器を飾る文様として選ばれて
いることは、ワラビのようなシダ植物は当時身近な存在で、しかも、
縄文人のイメージの世界に強く残る重要な植物であったからに違い
ない。

他方、台ノ上遺跡とほぼ同時期の遺跡で、とくに新潟県の長岡、十
日町、津南などの信濃川周辺の台地からは、土器の口縁部に特有の
突出文様をもついわゆる「火焔土器」が多数発掘されている。この火
焔土器のモチーフは燃えさかる炎である。この炎は煮炊きのためチ
ョ口火ではなく強烈に燃えさかる野焼き・山焼きの火を連想させる。
さらに火焔土器の下部の縦線は「ススキ」を想起させる。このように
縄文中期を代表する大木様式土器の中に「ワラビ」、「ススキ」そして
「炎」といったモチーフを読み取ることができる。縄文中期の土器は
前期までの「装飾性文様」から一転して「物語性文様」に質的な変化を
遂げたとされている(小林、1994)。

当時の縄文人は大地にススキの微粒炭を含むクロボク土を残した。
そして土器に「ワラビ」、「ススキ」、「炎」の関係を物語らせている。
以上のように、当時の縄文人はその主要な生業として、野焼き・山
焼きを通し、ワラビ野・ススキ野を作っていたことをここに新しく
提示したい。

神鍋火山岩(20)

◆神鍋クロボク土 「縄文人の残した足跡?」

少し上に歩くとありますが、うちの周りにはないので黒ボ

ク土をいじった記憶はほぼなし。保育園周辺の畑で遊んだ、

息子の服の汚れが落ちない、と妻が言っていたり、農作業で

真っ黒になるよ、と地元の方も言われていました。この「黒



い汚れ」はとっても微細な粒子らしく、これが黒ボク土の正

体を知るうえ大きなカギとなるようです。黒ボク土は噴火に

よる火山灰などが積もってできた土が基(母材)になってい

ますが、火山灰土だけでは黒ボク土にはなりません。Wikiに

は、火山山麓の台地や平地でよく見られ、一部、火山灰に由

来しない黒ボク土も存在し、この場合は火山より遠く離れた

地でも見られる、とあります。黒ボク土の真っ黒な色は、有

機物が土中に腐植として多量に集積しているため。 ススキや



ササなどの植生が、長い年月の間に多くの有機物を土壌に供給し

ました。火山
灰に多く含まれる活性アルミニウムは、腐植と強く結

合して、腐植を容易には分解できない形に変えるこ
とも知られてい

ます。この腐植の難分解性が、黒ボク土における腐植の多量集積

の要因になっています(こちらから)。そしてこの黒ボク土、
縄文人

の大きな「足跡」ではないかとも言われてます。文献は次回記録し



ますが、ある文献には、「黒ボク土中の黒色破片の形態はススキ

の燃焼炭粒子と共通していることを見出すことができ・・・」とあり、

イネ科などの植物が燃えた、つまり黒は「炭」の色ではないかと。

また、黒ボク土は1万年前以降(縄文人が生活を始めた)にしか形

成されていないということ。つまり、
火山灰土の上で野焼き、山焼き、



焼き畑などによる「火入れ」、縄文以降の長い年月における「人」の

営みである表土、土地利用によって
黒ボク土が作られたのではな

いかというわけです。神鍋エリアを見ても、谷に入ると黒ボク土はな

く、まだら模様に分布しているようです。
もちろん黒ボク土の形成に

ついては諸説あり、専門家の方から、
検索してみてもその辺の話

は出て
いますよ」とのことだったので、次回は文献を詳しく探ります。

神鍋火山岩(19)

◆神鍋クロボク土◆ 峭ボクによる農業と水」

このような土地は、水田には不向きで(農業と黒ボク土について

こちらを参考)、
神鍋でも
やはり主に畑地として使用されてきました

(マップの緑色の部分)。
桑樹栽培に適しているので養蚕が盛んだっ

た時代は桑畑に利用されました(風穴に蚕種を保存したという話しが



ありました)。
また、高原野菜の産地として昔からスイカ、キャベツなど

が栽培されています。神鍋高原は稲葉川の上流にあり、標高350m

程度の高原ですが周りを1000m級の山に囲まれ、降水量が多く寒

暖の差が激しい地域です。
そのために農作物は甘味を増し、おいしい



野菜ができると言われています。
ダイコン、カブ、サトイモ、サツマイモ



などの根菜類もよくできるようです。
サトイモは縄文時代中期に渡来して



きたとっても古い作物です。道の駅にありました。山芋の一種である

「イチョウイモ」、黒土にまみれた足?とっても独特な形をしています。

とろろごはん、ワサビでおいしかったです。
一方、 黒ボク土が分布して



いない土地は主に水田として利用されています。「神鍋米」として

ブランド化もされています(確か新聞に)。西気地区の平野部にも



たくさんあります。大岡山の裾野の山宮には棚田が残っていま



す(昔は100枚以上あったようです)。神鍋周辺にはこのような真っ

黒い黒ボク土をはじめ、赤土やいろいろな土壌が
混じり、近接し合い、

畑地や水田になっていて、
それぞれに適応作物があるようです。



神鍋の作物についてはまた調べてみたいと思います。ということで、


黒ボク土はどのように形成されたのか、そこには縄文人が関係して

いたのではないか、そこから原始的な「里山」が見えてきて、神鍋周

辺のこのような土壌に吸収された水が十戸で湧く、黒ボク土、畑地、

地域の農業は「水」にも繋がり、個人的には興味ありありな話しです。



いろいろな方からカブやサトイモ、とっても美味しかったです!

神鍋火山岩(18)

◆神鍋クロボク土  屬もしろい!話し」

今回、おもしろいなぁ、と思ったひとつが「黒ボク土」の話し。
専門家の方

から、「クロ
ボクは人間によって作られた、という話しがあります」、と聞い

てびっくり!そんなおもしろい話し、知りませんでした・・・。
黒い土の色と、



「乾いた土を触るとボクボクした感じがする」というのが語源。「黒土」と

もいう。地元の人は「クロブク」と言ったりもします。世界でもほとんど

見られない珍しい土壌のようで、
全国には全面積の約16%にも分布し

ています。北海道、東北、関東、九州に多く、近畿は少ないようです。

(黒ボク土の分布はこちらが参考になります)。大半が畑地として利用

されています。但馬付近では、小代(美方郡香美町)、夜久野高原(福

知山市)、河合谷高原(鳥取市国府町・岩美郡岩美町)にも分布してい

るようです(間違っていたらすみません)。神鍋周辺では
神鍋火山群か


※「神鍋高原コース」(山陰海岸ジオパーク推進協議会)より

ら噴出した火山灰、スコリア層を覆って黒ボク土が十戸のすぐ上まで



分布しています。栃本、山宮から石井、頃垣付近まで稲葉川と大岡

川(大岡山を源流とする)を挟んで分布しています。河川の向こう側に



は水田、棚田が見られます。(13)にも書きましたがその下の十戸から

水田が広がっています。各火山体の位置、風向きによる降灰分布、洪



水、土石流などで流れたり堆積したり(十戸に近いものほど)・・・

詳しくはわかりませんが分布もいろいろ。写真の畑は頃垣です。

神鍋火山岩(17)

◆農耕のはじまり ※「日高町史」より

弥生式文化というのは基本的には、農業生産を母胎とする文化で



あった。縄文式文化
の終わり頃から、キビ、アワ、イモ類の栽培が

行われたらしい。この
限り縄文人にとって一番邪魔になるのが湿地

帯であったが、米作りの
文化が知られ、湿地帯こそ、米作りのため

の最良の場所に転化する。但馬に
どのように、米作りの技術が伝播



したかといえば、前期弥生時代の前半
ごろに、九州から日本海

沿いに北上したものだろうと推測されている。稲作
が始まると低

湿地周辺に集落がつくられ、人々は定住するようになる。・・・・・・